あいえすえすのだいありー

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大学1年生です。140字では収まらないような事を書きます。diaryじゃなくてdialyになってるのは内緒

逆張りオタクと森鴎外

  令和最初の記事になります。新元号になってもよろしくお願いします。

 

  僕がこのブログを始めようと思った理由の一つにある人の存在が挙げられます。僕はその人と直接接点があるわけではないのですが、高校時代の先輩にあたる人でありTwitterでもFFの関係にある人です。この方はブログを開設しており、その内容は面白いだけでなく、論理展開もしっかりしており、その上僕たちに新しい視点を与えてくれるような物となっています。僕自身、このブログを読んでひどく感動し、このようなブログが書けるようになりたいと思うようになり、今このブログを書いてます。僕はこの方を密かに尊敬しています。

 

   そんな先輩ですが、この方はご自身のことを「逆張りオタク」であると評しております。そして僕も実際にこの方のブログやTwitterを見ていて「ああ、たしかに『逆張りオタク』だなぁ」と思うことがあります。今回はこの「逆張りオタク」について考えてみようと思います。

 

   逆張りオタクとは、大衆の流れに逆らっていくオタクのことです。例えば大ヒットした映画を観てつまんねえなと言ったり、クラスの中で話題になっている音楽を聴こうとしなかったりするような人々のことです。先ほどまで某先輩の話をしていましたが、実は僕自身にもその傾向があります。僕は未だに「逃げるは恥だが役に立つ」を視聴していませんし、あいみょんや乃木坂の曲をあまり聴こうと思いませんし、さらには映画「君の名は。」を観た直後に抱いた感想が「微妙だったなぁ」でした。「君の名は。」についてはもっと話したいことがあるのですがまた今度の機会にするとして、自分を振り返ってみると某先輩なんかよりよっぽど自分の方が逆張りオタクなのではと思います。何だったのだろう、さっきの前置きは。

 

  次に逆張りオタクと化す理由について。大きく3つに分けられると思います。

 

  1つ目はシンプルに好きじゃないという理由です。ほかの人たちは良いって言ってたけれど自分にはいまいちよくわからなかったというタイプです。僕の場合、「君の名は。」の例がこれに当たります(先ほども書きましたが、『君の名は。』に関してはもっと話したいことがあります。しかし今回のテーマから逸脱してしまうのでまた今度の機会にします)。これに関しては特にいうこともありません。「ふーん、あんまり好きじゃないんだ」くらいです。

 

 2つ目は労力が惜しいという理由です。世間で流行っているものがあるけど、それをするくらいなら自分の好きなことをしたいというタイプです。僕の場合、あいみょんや乃木坂の曲をあまり聴こうとしないことがこれに当たります。これは正直もったいないです。というのも他人から知らされることによって自分の中で新しい世界が広がることが大いにありうるからです。例えば、僕は1か月ほど前に母親に連れられて「ボヘミアン・ラプソディ」を観に行きました。正直Queenに興味はなく観に行きたいと全く思ってなかったのですが、実際に観てみると本当に凄かったです。感動しました。ですから皆さんも興味ないことでも一度は足を踏み入れるべきだと思います。これは僕自身にも言えたことであり、僕も一度はあいみょんとか乃木坂とか聞いたほうがいいなぁと思いながらPerfume聴いてます。

 

 3つ目は世間と同じ方向に進みたくないという理由です。世間に流されない俺カッコイイと少なからず思っているタイプです。僕の場合、クラスの一部の界隈で話題になっていた「ごちうさ」というものを観ようとしなかったのがこれにあたります(ただ、後になってから少し観てみたのですが、あまり好きではなかったです)。気持ちはわかります。ただ、こういうことばっかり言っていると「逆張りオタク」のレッテルを貼られるようになり、みんなから色々とからかわれるようになります。

 

 最後に上の中で3つ目のパターンの人について少し考えてみようと思います。みなさんは3つ目のパターンの人を見たら少なからずこう思うはずです。「世間に流されない俺カッコイイと思っているのはカッコ悪い、ダサい、etc」。ただ、本当にそうなのでしょうか。逆張りは本当にカッコ悪いのでしょうか。

 

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 ここで「舞姫」「高瀬舟」などの作品を残した森鴎外の思想について話します。彼は「諦念」と呼ばれる境地についての主張をしました。彼によると諦念とは世間に合わせながらもそこに埋没しない境地のことです。

 

 逆張りオタクも諦念の境地に入っているのではないでしょうか。彼らもなんだかんだ言って世間の中で生きており、社会を動かす歯車の一部に過ぎない人間なのです。そんな中でみんなに合わせるのではなく、逆張ることによって自己を埋没しないようにしているのではないのでしょうか。そう考えると逆張りはカッコ悪い行為ではなく、諦念の境地に達するためのむしろ崇高な行為なのです。

 

 ってかこんな結論に達するあたり、僕ってやっぱり逆張りオタクなんだな。